ひらいずみナビ[世界遺産の町 平泉の観光ガイド]

世界遺産 平泉

「平泉の文化遺産」は、2011(平成23)年6月、フランスのパリで開催された第35回世界遺産委員会において、
世界遺産リストに記載(=世界遺産登録)することが決定されました。

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「平泉の世界遺産」概要

【資産名】

平泉 ─ 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群 ─

【構成資産】

【「平泉」がなぜ世界遺産なのか】

平泉には、仏教の中でも、特に浄土思想の考え方に基づいて造られた多様な寺院・庭園及び遺跡が、一群として良好に保存されています。
寺院や庭園は、この世に理想世界を創り出そうとしたもので、海外からの影響を受けつつ日本で独自の発展を遂げたものです。
平泉の理想世界の表現は、他に例の無いものとされています。

構成五資産の紹介

中尊寺

 中尊寺は山号を関山といいます。17院により構成される天台宗の一山寺院です。嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられます。その後、奥州藤原氏の初代清衡が、本拠地を江刺豊田館から平泉に移し、長治2年(1105年)に造営に着手しました。
 初めに、多宝寺が建てられ、次いで大長寿院(二階大堂)が完成したと伝えられます。大長寿院は、高さ15メートルという大きな建物でした。その中には、高さ約9メートルの金色阿弥陀如来像が、本尊として安置されていました。平泉に侵攻した源頼朝は、大長寿院を見て驚き、それを模して鎌倉に永福寺を建てたそうです。このように、清衡は次々に大伽藍を建立し、天治元年(1124年)には金色堂を完成させました。全盛期には、40にも及ぶお堂や塔などがあったといわれています。
 国宝の金色堂は、七宝珠玉が贅沢に使われており、他に類を見ない独自のものです。また、須弥壇の中には初代清衡、二代基衡、三代秀衡のご遺体と四代泰衡の首級が納められています。

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毛越寺

 毛越寺は中尊寺と同じく、嘉祥3年(850)慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられます。その後、藤原氏二代基衡が造営に着手し、三代秀衡の時に完成しました。
 当時はお堂や塔が40以上もあり、お坊さんが生活する建物は500以上もあったそうです。「吾朝無双(我が国に並ぶものがない)」と言われるほど立派なものでした。
 しかし相次いだ火災により、当時の建物は残っていません。現存する常行堂も、江戸中期のものです。しかしながら、遺跡が良好に保存されていることから、特別史跡に指定されています。
 大泉が池とそれに注ぐ遣水は、発掘調査に基づいて整備されたものです。この浄土庭園は、平安時代の庭園造り秘伝書『作庭記』に忠実に造られたもので、特別名勝にも指定されています。大泉が池は海岸の美しさを表し、遣水は緩やかに蛇行しながら自然の小川のように造られています。まさに、この世の浄土です。
 このような特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているものは全国でも9例しかありません。(平成28年時点)

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観自在王院跡

 毛越寺東隣の観自在王院は、藤原氏二代基衡の妻によって建立されたと伝えられています。敷地の北側には、大小2棟の阿弥陀堂が建っていました。その内壁には、石清水八幡宮、賀茂の祭、鞍馬の様子、宇治平等院などの首都京都の霊地名所が描かれていたそうです。平泉に住む多くの人々にとって、京都観光はかなわぬ夢でした。その夢を描いていたといいますから、観自在王院は人気があったに違いありません。
 毎年5月4日に「なき祭り」という珍しい祭りが行なわれます。基衡の妻の死を嘆き悲しむものですが、ここにも観自在王院に対する民衆の思いを見て取れます。
 観自在王院は、発掘調査と復元整備により甦りました。往時とは異なりますが、今は史跡公園として親しまれています。

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無量光院跡

 藤原氏三代秀衡が建立した無量光院は、宇治平等院の鳳凰堂を模して、ひと回り大きく造られました。しかし現在は、建物は焼失し、礎石が残っているだけです。池跡は一段低くなっており、往時の状況を現代に伝えます。
 院の正面に立つと、橋・中島・橋・本堂が一直線に並び、その先には金鶏山が望めます。本堂に向かうと、背後の山並みに夕日が沈みます。夕日に包まれた壮大なお堂と浄土庭園で、秀衡は何を思ったのでしょうか。

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金鶏山

 金鶏山は、比高差60mほどの円錐形の優美な山です。平泉を訪れた松尾芭蕉も、「金鶏山のみ形を残す」と、その印象を述べています。山頂からは平泉すべてを見渡せることから、平泉の中心として意識されていたようです。 金鶏山には、秀衡が一晩で造った人工の山、雌雄一対の黄金の鶏が埋められているなどの伝説があります。これらの伝説は、山頂に営まれていた経塚から派生したものでしょう。経塚は、初代清衡晩年から四代泰衡までの間に、最低9基は造られたようです。
 これら経塚造営により金鶏山は、平泉を鎮護する聖なる山になりました。また毛越寺付近は、金鶏山から南に延ばした子午線を基準として造られています。さらに無量光院も金鶏山を背景とする位置に造営されました。このように金鶏山は、平泉における基準ともなった山なのです。

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関連資産について

そして未来へ

追加による世界遺産登録を目指しています

平泉は、仏国土(浄土)を直接的に表した建築・庭園の顕著で普遍的な価値が認められ、世界遺産に登録されました。
平泉の歴史・文化は、さまざまな側面を持っています。私たちは、平泉の多様な価値をより広く伝えていくうえで、
登録資産に関連する数多くの有形・無形の文化財もまた重要であると考えています。
とりわけ、柳之御所遺跡・達谷窟(平泉町)、骨寺村荘園遺跡(一関市)、白鳥舘遺跡・長者ヶ原廃寺跡(奥州市)は、
平泉を理解する上で重要な遺跡です。
平泉をさらに価値あるものとして世界にアピールするため、私たちは登録資産の追加・拡張をめざす取り組みを進めます。

柳之御所遺跡

 高館の麓から北上川沿いに広がるこの一帯は、奥州藤原氏初代清衡、二代基衡の屋敷跡と伝えられてきました。しかし昭和63年から6年間に及ぶバイパス工事に伴う発掘調査で、12世紀後半の遺構群と膨大な遺物が見つかりました。このことから、『吾妻鏡』に記載される「平泉館(政庁)」であった可能性が高いと言われています。
 調査が進むにつれて、遺跡の保存を求める声が大きくなりました。その結果、建設省(現国土交通省)がバイパスルートの変更という大英断を下し、保存が決定しました。
 現在も学術調査が行われ、京都との交流を示す大量のかわらけ、中国産の青白磁や白磁四耳壺などの陶磁器類、銅製の印章や鏡、そして木製品や金属製品など、多種多様な遺物が発見されています。この状況から柳之御所遺跡は、平泉の政治・経済・文化の中心的施設であったことがうかがわれます。

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達谷窟

 寺伝によると、およそ1200年前、達谷窟を住みかとする悪路王という人が居りました。悪路王はとても乱暴で、人々を苦しめ、その悪行は京にまで及んだと言われます。そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、征伐を命じたのです。出陣にあたり田村麻呂は、京都の清水寺で戦勝祈願をしました。そして見事に悪路王を退治したのです。「この戦勝は仏様のおかげだ」と、お礼に清水寺を模したお堂を建て、108体の毘沙門天を祀りました。それが達谷窟毘沙門堂の始まりとされます。
 達谷窟も浄土庭園の形式をとる寺院でした。毘沙門堂の前に広がる蝦蟇が池は、弁天堂が建つ中島を有しています。発掘調査から、12世紀には今より二周りほど広く、護岸は玉石で覆われていたことがわかりました。また毘沙門堂から投げ込まれたかわらけが、多数見つかっています。
 前九年合戦の際には、源頼義・義家が戦勝祈願のため寺領を寄進し、また奥州藤原氏は七堂伽藍を建立したとも伝えられています。吾妻鏡によると、平泉を攻め滅ぼした源頼朝も帰り道に立ち寄り、参詣したようです。

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