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中尊寺は山号を関山といいます。17院により構成される天台宗の一山寺院です。嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられます。その後、奥州藤原氏の初代清衡が、本拠地を江刺豊田館から平泉に移し、長治2年(1105年)に造営に着手しました。
初めに、多宝寺が建てられ、次いで大長寿院(二階大堂)が完成したと伝えられます。大長寿院は、高さ15メートルという大きな建物でした。その中には、高さ約9メートルの金色阿弥陀如来像が、本尊として安置されていました。平泉に侵攻した源頼朝は、大長寿院を見て驚き、それを模して鎌倉に永福寺を建てたそうです。このように、清衡は次々に大伽藍を建立し、天治元年(1124年)には金色堂を完成させました。全盛期には、40にも及ぶお堂や塔などがあったといわれています。
国宝の金色堂は、七宝珠玉が贅沢に使われており、他に類を見ない独自のものです。また、須弥壇の中には初代清衡、二代基衡、三代秀衡のご遺体と四代泰衡の首級が納められています。

毛越寺は中尊寺と同じく、嘉祥3年(850)慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられます。その後、藤原氏二代基衡が造営に着手し、三代秀衡の時に完成しました。
当時はお堂や塔が40以上もあり、お坊さんが生活する建物は500以上もあったそうです。「吾朝無双(我が国に並ぶものがない)」と言われるほど立派なものでした。
しかし相次いだ火災により、当時の建物は残っていません。現存する常行堂も、江戸中期のものです。しかしながら、遺跡が良好に保存されていることから、特別史跡に指定されています。
大泉が池とそれに注ぐ遣水は、発掘調査に基づいて整備されたものです。この浄土庭園は、平安時代の庭園造り秘伝書『作庭記』に忠実に造られたもので、特別名勝にも指定されています。大泉が池は海岸の美しさを表し、遣水は緩やかに蛇行しながら自然の小川のように造られています。まさに、この世の浄土です。
このような特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているものは、全国でも8例しかありません。

毛越寺東隣の観自在王院は、藤原氏二代基衡の妻によって建立されたと伝えられています。敷地の北側には、大小2棟の阿弥陀堂が建っていました。その内壁には、石清水八幡宮、賀茂の祭、鞍馬の様子、宇治平等院などの首都京都の霊地名所が描かれていたそうです。平泉に住む多くの人々にとって、京都観光はかなわぬ夢でした。その夢を描いていたといいますから、観自在王院は人気があったに違いありません。
毎年5月4日に「なき祭り」という珍しい祭りが行なわれます。基衡の妻の死を嘆き悲しむものですが、ここにも観自在王院に対する民衆の思いを見て取れます。
観自在王院は、発掘調査と復元整備により甦りました。往時とは異なりますが、今は史跡公園として親しまれています。

金鶏山は、比高差60mほどの円錐形の優美な山です。平泉を訪れた松尾芭蕉も、「金鶏山のみ形を残す」と、その印象を述べています。山頂からは平泉すべてを見渡せることから、平泉の中心として意識されていたようです。 金鶏山には、秀衡が一晩で造った人工の山、雌雄一対の黄金の鶏が埋められているなどの伝説があります。これらの伝説は、山頂に営まれていた経塚から派生したものでしょう。経塚は、初代清衡晩年から四代泰衡までの間に、最低9基は造られたようです。
これら経塚造営により金鶏山は、平泉を鎮護する聖なる山になりました。また毛越寺付近は、金鶏山から南に延ばした子午線を基準として造られています。さらに無量光院も金鶏山を背景とする位置に造営されました。このように金鶏山は、平泉における基準ともなった山なのです。

高館の麓から北上川沿いに広がるこの一帯は、奥州藤原氏初代清衡、二代基衡の屋敷跡と伝えられてきました。しかし昭和63年から6年間に及ぶバイパス工事に伴う発掘調査で、12世紀後半の遺構群と膨大な遺物が見つかりました。このことから、『吾妻鏡』に記載される「平泉館(政庁)」であった可能性が高いと言われています。
調査が進むにつれて、遺跡の保存を求める声が大きくなりました。その結果、建設省(現国土交通省)がバイパスルートの変更という大英断を下し、保存が決定しています。
現在も学術調査が行われ、京都との交流を示す大量のかわらけ、中国産の青白磁や白磁四耳壺などの陶磁器類、銅製の印章や鏡、そして木製品や金属製品など、多種多様な遺物が発見されています。この状況から柳之御所遺跡は、平泉の政治・経済・文化の中心的施設であったことがうかがわれます。

寺伝によると、およそ1200年前、達谷窟を住みかとする悪路王という人がいたそうです。悪路王はとても乱暴で、人々を苦しめ、その悪行は京にまで及んだと言われます。そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、征伐を命じたのです。出陣にあたり田村麻呂は、京都の清水寺で戦勝祈願をしました。そして見事に悪路王を退治したのです。「この戦勝は仏様のおかげだ」と、お礼に清水寺を模したお堂を建て、108体の毘沙門天を祀りました。それが達谷窟毘沙門堂の始まりとされます。
達谷窟も浄土庭園の形式をとる寺院でした。毘沙門堂の前に広がる蝦蟇が池は、弁天堂が建つ中島を有しています。発掘調査から、12世紀には今より二周りほど広く、護岸は玉石で覆われていたことがわかりました。また毘沙門堂から投げ込まれたかわらけが、多数見つかっています。
前九年合戦の際には、源頼義・義家が戦勝祈願のため寺領を寄進し、また奥州藤原氏は七堂伽藍を建立したとも伝えられています。記録によると、平泉を攻め滅ぼした源頼朝も帰り道に立ち寄り、参詣したようです。




















